アジア古来の哲学と自然と芸術

彩流華 華林苑

Sairyuka art and old Asian philosophy rooted in nature.

華林苑 花日記


 

2024年03月23日(土) 華林苑 花日記

キブシをヨーロッパのガラス器に

春に1週間ていど、美しくつらなって下がるキブシは水気の多い場所に目立ちます。以前には、新潟の弥彦山ですごい数のキブシをみつけ感動したことがあります。
これはこの3月に金沢市の金沢エムザで開催された花展で、廣岡理樹の名前で出品したものです。
書(絵?)は『巳』=ミ、へび。
キブシ、桃、椿。ドイツらしい表情のガラス器と陶鉢に。
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2024年01月19日(金) 華林苑 花日記

復興への祈り 〝縄文女神と縄文男神の復活〟

金沢エムザで開催中の北國花展より ←終了しました
華と絵など/華林=廣岡理樹として出品
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中央/ 彩流華 剱の華・椿一色 銅薄端
左/ 彩流華 月の華・巳型 椿一色 陶壺
右/ 彩流華 日の華・巳型 松一色 銅鉢(火鉢)
絵「縄文女神」「縄文男神」:華 林(各額の幅は80㎝ていど)   額装:永嶋明
壺とライトのインスタレーション
  … 能登半島地震  慰霊と復興への祈り …


 

2023年12月06日(水) 華林苑 花日記

華林の芸術展2023 無事終了しました。ありがとうございました。

11月22日~24日に華林苑=金沢市大工町で開催された同展は無事盛況のうちに終了しました。
厚く御礼申し上げます。
後日、作品集ならびにWEBでの全作のご紹介を予定しております。
写真は同展より。20231206214307-karinen.jpg
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2023年09月05日(火) 華林苑 花日記

墨絵(軸)/三本足の烏(からす)  華/彩流華 剱の華・椿一色  器/舟形の陶器  いずれも華林作(器は意匠)


古来の強い信仰、文化の地・紀伊半島の熊野。その象徴として登場するのが「三本足のカラス」。有名な熊野三山の熊野牛王神符にも『カラス文字』として登場、また日本のサッカーチームのエンブレムにもなりました。
熊野は日本の床の間の伝統文化の一つの起点である中世・東山文化の担い手『同朋衆』(阿弥衆)の原点でもあります。その絵に、アジア古来の哲学にそった渦を表現する生け花『彩流華』を生けています。
 8月27日 古流会館(豊島区駒込)にて 古流・廣岡理樹(=華林)として出品
 
写真を大きくするときはクリック、タップしてください。
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2023年08月13日(日) 華林苑 花日記

十一面観音像をみて

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若いころにときどき訪れていた山の下山仏だという十一面観音像の御影(写真)を新聞でみて、なんとなく生けた椿一色の華。
似ていない … ですよね。


 

2023年08月07日(月) 華林苑 花日記

アスナロを一枝

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教室の入り口のお軸にアスナロを一枝。いただいた紫苑の小さな小枝を添えます。


 

2023年07月29日(土) 華林苑 花日記

野生のユリ … 大きくて特異な表情の〝ウバユリ〟

 山野に咲く日本の野生のユリは、花が大きかったり色が激しかったりでよくめだちます。
 これはウバユリ。大きくて特異な表情です。咲き始めで上品なよい香りがします。もっと咲くとふつうは茎が伸びて花と花の間隔が大きく開いてきます。
  花店のオレンジ色のスカシユリと合わせ、黄色のスターチスを少々。ウバユリは花が咲くときは葉が枯れ始めていることが多く、まだ葉柄に緑色が残っている葉をあえて添えました。
  野生の草花は魅力的です。お似合いの器をさがして是非いけてみてください。
  花は華林。華林苑に古くからある壺に。
  写真を大きくするときはクリック、タップしてください。

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2023年07月20日(木) 華林苑 花日記

古流協会展(東京)で彩流華と古流の生け花を展示します

軸「哥の聖 柿本人麻呂」華林
華 彩流華 剣の華 椿一色 華林
東京、日暮里サニーホール
古流協会展
22日(土)まで。22日は午後3時30分まで。
詳細は『古流協会』で検索してみてください。
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2023年04月02日(日) 華林苑 花日記

「春の夕刻」

葉っぱ(椿)ばかり生けていないで、たまには季節の花をいけました。
廣岡理樹の名前で、絵に合わせて生けました。
八重桜、椿、小菊。お魚の壺は沖縄のもの?
お軸の絵「月に鳥」と 花/華林
4月2日3日 金沢市の金沢エムザで開催された花展にて
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2023年01月31日(火) 華林苑 花日記

『風神雷神・コンテンポラリー』 北國花展より

 左/ 彩流華 剱(金)の華 椿一色
  絵:『雷神図』
 右/ 彩流華 風(木)の華 椿一色
  絵:『風神図』 
   華と絵/樹心院 華林(廣岡理樹)
   表装/永嶋明(金沢市、「現代の名工」に認定)
解説/江戸時代の俵屋宗達による風神雷神図屏風は尾形光琳や酒井抱一による模写とともによく知られます。同様のテーマの絵はアジアなどで古くからみられますが、両者を対にしたのは日本ならではの感性でしょうか。古代では宗教的なテーマであったものが、近世では芸術のモチーフとなったのも興味ぶかいところです。背後には陰陽五行の哲学があり、江戸の文化人たちがそれに精通していたという事実は今日では忘れられているようです。
 華と絵は、風神雷神の根底にひそむエネルギーの形を、陰陽五行の哲学にそって表現したものです。
 (華林)

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2023年01月19日(木) 華林苑 花日記

北國花展より-1

入野月華 「双龍の舞」
彩流華・風の華×二華
 椿一色
絵「龍図」 華林  表装 永嶋明
同展は1月22日まで(終了) 金沢市、金沢エムザ20230119002959-karinen.jpg


 

2023年01月19日(木) 華林苑 花日記

北國花展より-2

東 真華 「禮」
彩流華・火の華
レッドウィロー、赤松、シイノキ、椿
中国古代の祭器・尊式の写しの銅器
書「禮」 東真華  表装 永嶋明
同展は1月22日まで、金沢市、金沢エムザ
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2023年01月19日(木) 華林苑 花日記

北國花展より-3

土橋白華 彩流華・巳型
月の華、椿一色  火の華、赤松一色
軸「西王母」華林
同展は1月22日まで 金沢市、金沢エムザ
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2023年01月11日(水) 華林苑 花日記

北國花展で彩流華と古流の生け花を展示します

 1月14日から22日まで金沢エムザ(石川県金沢市)で開催される北國花展で、華林とその門中による彩流華や古流の生け花が何作か展示されます。
 写真は昨年11月に金沢の華林苑で開催された華林の芸術展から、華林「風神雷神図屏風と五葉松の彩流華」(同展の作品集やユーチューブは制作中です)
 会期は17日までが前期、19日からが後期で大方の作品は入れ替えになります。18日は生け替えのためお休み。(終了しました)
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2023年01月04日(水) 華林苑 花日記

お正月に古い白山社の神前に生けました。

献花:森川理青
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2022年10月28日(金) 華林苑 花日記

彩流華・剱の華 東森久華さん

能美市文化祭での作品です。(石川県)
中央はシイノキ(剱の華)、左右に小さくアルストロメリア、ナンバを紅白に。
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2022年06月08日(水) 華林苑 花日記

初夏の「直立型応用花」です。

枝はナナカマド、三つ葉ツツジ、マルバノキほか、花はギガンジウム、キョウカノコ、スカビオサ、足もとに八重のドクダミを挿しています。
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2022年06月02日(木) 華林苑 花日記

花展の華 5月 金沢市 その5

彩流華 華林
風の華・三華  アスナロ(アテ)、赤松 鉄鋳物三管
剱の華・掌華(小さい花) ツバキ
金神(ミロク)面(陶)/華林(焼成/荒木実)
軸「風神」/華林
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2022年06月02日(木) 華林苑 花日記

花展の華 5月 金沢市 その4

彩流華 剱の華 と 掌華  ナツハゼ、アスナロ、アカマツ、ツユクサ(月草)
土橋白華
陶花器舟形、那智黒石樹脂成型
絵「𩵋図」/華林
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2022年06月02日(木) 華林苑 花日記

花展の華 5月 金沢市 その3

彩流華 土の華 ツバキ、ほかに花五色
東 真華
陶花器 意匠/華林
書「三本足の蛙」/東 真華
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2022年06月02日(木) 華林苑 花日記

花展の華 5月 金沢市 その2

彩流華 剱の華 ツバキ一色
入野月華
陶花器 意匠/華林
書「白鷺」/入野月華
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2022年06月02日(木) 華林苑 花日記

花展の華 5月 金沢市 その1

禮華 森川理青
ナツハゼ、ヤマボウシ、赤松、ほか 陶花器 意匠/華林
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2022年04月06日(水) 華林苑 花日記

花器の移り変わり

 江戸期における花器の好みの移り変わりは、その時代の風潮もあらわしていて興味ぶかいものがあります。
 写真は享保五年・1717年の奥付がある『立華道知辺(みちしるべ)大成』のページです。この書は立花の作品図が39点、なげ入れ調のものが4点、ほかに床飾りや道具、その他の図も少なからずあり、解説文だけの頁も多く全部で65頁と、このころのものとしては大部のものです。
 享保年間は江戸前期から中期に移るころで、その半世紀後の明和年間には後に一世を風靡する生花(せいか)がぽつぽつとみられ始めます。享保年間は立花が全盛の時代に生花(せいか)の前段階とも言うべき「なげ入れ」が目立ち始めるといったころでしょうか。この「なげ入れ」調の花は、そのころ増えていった床の間・書院や違い棚などの近世の和風空間によくマッチしており、大広間などで生けられた立花とは違う展開をしていったことがよく理解できます。
 さて、この書の立花の図39点のうち23点は、花器は立花の古図によくみられる口が広がる形をしており、絵の感じでは唐物ふうの青銅器でしょうか。当時のこの種の青銅器は打ち出しが多かったかもしれませんが自信はありません。残りの9点の立花の図の花器は洒落たものやかなり凝ったもので、青銅ではなく陶磁も混じっているかもしれません。形もかなりバラエティーに富んでおり上の写真もその一点です。砂の物3点にも洒落た器がみられます。また、洒落た器の図は解説文をはさんだ後半にまとめてあり、編集の意図がみられます。
 下の写真の花器の図では、上段には青銅や陶磁と思われるものが多く表情は硬め、下段では竹や篭など柔らかい表情のものが目立ちます。他のなげ入れの書もあわせてみると、唐物あるいは唐物風の固い表情のものから、時代とともに柔らかい表情の器が占める割合が多くなっていることが分かります。それと同時に、なげ入れや生花に特有の生け花に詩歌をあわせる形では、漢詩から和歌へと比重が変化していることも分かります。つまり、国風化の流れがみられるのです。
 平安時代に経験したような国風化の流れが、生け花の周辺の文化でも江戸時代中期以降ふたたび顕著にみられることは特筆すべきことかもしれません。それは「国学」の隆盛とも軌を一にしています。
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『立華道知辺(みちしるべ)大成』から立花の図と花器の一覧。詳細は本文に。前々回にも言及。


 

2022年03月22日(火) 華林苑 花日記

聖徳太子と秦河勝

 前回は池坊つまり六角堂=頂法寺についてふれましたが、この華道でよく知られるお寺は聖徳太子にゆかりの古刹であることもよく知られています。その由緒についてはウェブ上などで容易に知ることができるのでここでは触れませんが、その聖徳太子とふかいかかわりがあった人物に秦河勝(はたのかわかつ)がいます。近年ではこの人物に対する関心がおおきな高まりをみせているようです。聖徳太子と秦河勝は文化の深層にあっても表裏一体の関係にあった、そんなふうに言えます。
 京都・太秦の弥勒菩薩像でよくしられる広隆寺は秦河勝にゆかりのお寺とされますが、地名の太秦(うずまさ)もまた『秦』の字がもちいられ、秦氏に強いつながりがあった地域なのでしょう。ちなみに、『太』のほうの漢字も本来は「ウズ」とは読めず、渦=ウズが貴い、の意から来たよみとされます。記紀では「貴」もまた「ウズ」とよませています。貴・太をウズとよませるのは万葉集や記紀が成立する古い時代にはじまると考えられるでしょう。ちなみに、作家の岡本太郎が注目した縄文土器の渦巻紋が、具体的に「渦=貴い」を視覚化して理解するのにはよさそうです。(「太」は太一や太白、太陽、太陰など、古くは非常に貴いものに用いられた字)
 世阿弥が秦河勝を能の祖とした話は有名ですが、そこでは芸道全般の祖というニュアンスで語っています。世阿弥は『阿弥衆=時衆』とされることがありますが、その謡曲集(金島書など)には阿弥衆ならではの内容がみられ、やはり阿弥系の文化の系列とみるのが自然でしょう。
 世阿弥からくだること半世紀前後、日本の床飾りや生け花の原点とされる室町時代の東山文化の担い手がやはり阿弥衆(同朋衆)でした。そんな観点からみると、中世の阿弥衆(時衆)が強い哲学を持って日本の文化をリードしていった、そんなふうにみることができます。それはその時代=中世では「武家文化」とよぶことができます。
 そして阿弥系の文化の原点といえば、阿弥衆の祖、一遍上人に求められます。
 一遍上人の伝承では熊野に参籠して熊野権現の啓示を受けるのがクライマックスと言えますが、聖徳太子の墓所にも参籠しています。一遍上人絵伝では、細部は違っても太子の墓所は今日の姿をはっきりと重ね合わせることができ、尋ねたことがある人にはちょっとした感動を呼びそうな場面です。
 深層の部分では、生け花を含む日本の芸道の一つの流れの精神的なルーツが、阿弥衆をとおして、あるいは寺院の歴史などをとおしてさまざまに聖徳太子に、秦河勝に結びついてゆきます。さらにそこには、謎に満ちた聖徳太子の存在や天智・天武天皇の時代に激変した日本の文化など、驚くべき歴史の真実が隠されているように思われます。
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『十五夜・太子図』/華林画
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大阪府太子町の聖徳太子墓所。(叡福寺北古墳)

註)阿弥衆・時衆は研究者にとって非常に魅力的なテーマのようだが、見解も分かれているようだ。私見では、中世・室町時代までの時衆・阿弥衆は不思議な文化をもち、芸道文化に長けた不思議な人々のネットワークだったと考える。僧侶と芸道者、文化人は今日のように明瞭に区分できるものではなかった。神仏混交でもあり、今日的な宗教の概念で考えることはできない。また時衆による踊念仏が盆踊りのルーツといわれている。
註)聖徳太子信仰は今日でも天台宗や浄土真宗など複数の宗派に強くみられ、真言宗の祖・空海にも聖徳太子にまつわる逸話が数多く見られる。


 

2022年03月09日(水) 華林苑 花日記

立花の出版事情


 華林苑には江戸時代などの立花(りっか)の版行本や巻物もあります。元禄のころから明治中期まで長い期間のものがあり、需要が続いていたものと思われます。とくに元禄や享保など比較的早い時期のものが多いように思われます。つまりは、「なげ入れ」や「生花=せいか」が流行する前の時代に、より需要が多かったということでしょうか。(サンプル数が少ないので一般に言われる歴史と照らし合わせての話ですが)
 元禄二年・一六八九の奥付がある『立華和要集』は現在のB六判ていどの小さな本ですが、作品図には四~六色と思われる彩色がなされ、出版物の彩色としてはかなり早期のものと思われます。ただ、絵の具の質がいいのでしょう、早い時期の彩色は色あせずに今日まで残っているものが多いようです。和要集のタイトルは、他の分野でも似た題名の本があるので流行りだったのかもしれません。
 立花の書には著者名がないものが多く、出版社=書店名だけが記されています。市中の人々のなかで広がりを見せた立花の隆盛の実情をかいま見ることができます。そしてこの書には出版社名もありません。著者のものと思われる印だけがみられます。
 享保五年・一七一七年の奥付がある『立華道知辺(みちしるべ)大成』は現在のA5判ていどでやや大きく、『摂津書肆 伊丹屋○○』の奥付がみられますが、やはり著者名はどこにもみられないようです。こちらは単色刷ですが解説文も多く、違い棚などの飾り付けや花器、三つ具足その他のさまざまな道具の図も豊富にみられ、そこには「なげ入れ」ふうの花もあり、かなり踏み込んだ内容となっています。ちなみに、この書肆の名前はネットで調べても登場せず、似た名前は天明年間にようやく登場しています。
 明治期の本も少なからずあるのは、花店や門徒が「報恩講」などの宗教行事のさいに仏前に生けるためのテキストであった場合が多いのでしょう。家元制度が徳川幕府の文教政策として定着するのは江戸時代中期で、それ以前に一般に広くなされていた立花は特定の流派のものではありませんでした。後に立花以外の花で「流派」を〝旗揚げ〟する家元たちの多くが、同時に立花もたしなんでいたものと思われます。今日では立花といえば特定の流派を想起する人も多いようですが、単一の流派にとどまるものではなく、複数の流派で生けられています。そのなかでも、「池坊」(六角堂=頂法寺、天台宗系の寺院)の僧侶が名手として、複数の名前が歴史上、知られています。


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『立華和要集』元禄二年・一六八九の一頁。松と竹を並立させて真(身)としている。五~六色で彩色している。


 

2022年02月23日(水) 華林苑 花日記

「月草」


 ツユクサは今日ではあまり生け花にもちいることはありませんが、江戸の書には生けられた図があります。今日でも生けてみるといいかもしれません、小さな花には強い魅力があり、水揚げも悪くありません。
 さて、ツユクサ(露草)はかつては「月草」と表記されました。江戸時代にその表記がみられますから、明治でもあるていどはそうかもしれません。そしてはるかに古く、万葉集でも月草と書かれます。古くから印象的な草花だったのですね。
 一般的に考えると月草は「つきくさ」と発音したと思いがちですが、若干の疑問も残ります。万葉集の時代の言葉の読み方は不明な場合が多く、現代的なセンスで解釈すると大きな間違いをしてしまいます。たとえばカキツバタの名前の由来が「かき付け花」とされたことがありますが、かなり無理な解釈です。現代語と古代語の語感を混同してしまったのでしょう。「垣津旗」つまり垣根のように生える葉群に掲げられる旗のような花、と考えるのが上古の語感に沿っています。旗(幡)は高貴なものでした。
 また、「ついたち」は「月立ち」が訛ったもの、というのが大方の言語学者の見解のようですが、実際に「つきたち」と記された例はないそうです。「ついたち=朔」は古代では非常に重要な言葉だったと考えられますが、記紀・万葉の時代にすでに発音が変わっていたとすれば、そこには不自然さが感じられます。
 話を「月草」に戻すと、もともと「つゆくさ」あるいはそれに似た発音をしていた、と考えることもできそうです。「ついたち」も、「つきたち」から変化したのではなくて、もともと「ついたち」などと発音していた可能性があるのです。ならば、「ついたち」「つゆくさ」の「い」「ゆ」はともにヤ行であり、「い」はyiだった、と推論することもできそうです。
 また簡便にカタカナで表記すれば、チャンドラ(インド)、チャイナ(中国)も「月(月氏)」を語源とする言葉と言われます。アジアの文化圏で「チャ…」の発音が日本では「ツ…」になったと考えるのも不自然ではありません。
 日本は言霊の国です。生け花も飾った古代の「人麻呂影供」は一面では歌聖・柿本人麻呂を祀る儀式でもあり、言葉の発音は和歌のみならず生け花をはじめ多くの芸道で非常に重要なものでした。そして古来の最大の関心事のひとつである「月」の発音がいかなるものであったのか、興味は尽きません。
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 写真は以前にも掲載したツユクサのいけばな。華林苑にて。
 図は江戸後期の松月堂古流の書の一頁。『月草』とありツユクサのこと。生花(せいか)に生けている。この流派では江戸時代にすでに分派(複数の家元)があったようにも思われるが、それが事実ならかなり珍しいことかもしれない。この書の門弟は、作家名などから公家の子女も多かったと考えられる。


 

2022年02月04日(金) 華林苑 花日記

卓(しょく)に椿一花

 古代の神楽歌に「かぐわしきサカキ葉」という表現がでてきます。かぐわしい、は「香しい」で、香りがよいことをいいます。
 ただ、これを現代的な感覚で「良い香り」と受け取るのはやや拙速で、生気が満ちる樹木のすがすがしい香り、ということで、ひるがえって、生き生きとした樹木のありようを「香しい」とも表現しました。おおかたの場合、これは杉や椿などの常緑樹を指します。サカキ葉のサカキは今は「榊」ですが、本来は「栄木」で常緑の照葉一般をさしました。
 奈良の「香具山」の名前もこの意味からきていると言われます。香具山は小さな山ですが今でも霊山として敬われ、杉などの照葉の樹木が生い茂って山全体が森になっています。鹿島神宮で有名な茨城県の鹿島の地も古い名前は「香島」で、広大な岬に椿その他の常緑樹が生い茂り、生気に満ちた場所です。
 さて、東山文化由来などとして江戸時代に受け継がれる「卓に椿一花」の生け方があります。江戸期にはもっとも好まれた生け方だったといえます。足利義政が銀閣寺で生けた、という図が好まれ、同時代の他のおおかたの故事が現在の銀閣寺の横にかつてあった大きな「会所」を舞台としたと考えられるのに対し、こちらは現在でものこる銀閣の建物が舞台となっており、そのぶん親しみやすいのかもしれません。
 さて、卓(しょく)はほんらい香炉などを置くものです。そこに椿一輪を生けるのには、強い主張や文化があります。野生の植物にまさる「香り」はない、という哲学です。そして「香しい」常緑樹の代表格を椿としているのです。もちろんそれは、千利休が好んだように野生のヤブツバキでなければならないでしょう。
 卓に椿一枝をいけたとき、それは香炉にまさる香り、として生けます。もちろん一枝ではなかなか香りを感じることはできませんから象徴的な意味としてあるわけですが、卓ほんらいの用途も考慮して香炉を上段、椿を下に生けるときは、香炉に香は焚かず灰だけを入れておくようにと記されます。「香しい」の意味がまだ生きていた時代の素晴らしい文化といえます。

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『抛入岸之波』=なげいれきしのなみ・元文年間(1736-1741) 釣雪野叟より、卓に椿一花の図。(部分) 上の香炉には香は焚かない、という説明が前ページにある。ここではとくに銀閣寺という設定はないが、江戸時代には多くの流派がこれを銀閣寺における故事として、同様の図を描いた。


 

2022年01月20日(木) 華林苑 花日記

花展の作品 - 熊野の山の神

2022年1月15日~23日に金沢市の金沢エムザで開催の北國花展での作品です。
1ブースに2作品を生けていますが、そのうちの彩流華です。
絵は「熊野の山の神」で華林作、額装は永嶋明さま、昨年秋の熊野遊行の直後の作品。
華は彩流華・剱(金)の華、花材は椿一色、華林挿。20220120121816-karinen.jpg


 

2022年01月04日(火) 華林苑 花日記

水くぐりの梅

 「水くぐりの梅」は江戸期の文人、芸術家にとって魅力的なテーマでした。梅の枝が下がって川の流れをくぐり、また上へ昇る、という構図です。МОA美術館所蔵の尾形光琳『紅白梅図屏風』はまさにこのテーマを描いています。
 紅白の梅を川の左右に配置し、白梅の枝が川の流れをかすめるように下がってまた上方へ向かいます。向かって右に紅、左に白、また川の流れをかすめるのが白の梅、という構図が恐ろしいまでの緊張感あふれる美しさをみせています。
 じつはこの「色」と「水」の配置は古来の陰陽五行の哲学に拠っています。京都の豪商の家に生まれ、いわば放蕩の挙句に画業に専念した光琳は、この「放蕩」の時期に多くのことを学んだとも考えられます。
 当時の文化人の素養をみるうえでよく引き合いに出されるのが『和漢三才図会』です。これはアジア古来の哲学や地誌、有職故実、風俗などあらゆる分野を網羅した百科事典のようなものですが、これを一人で著した寺島良安は江戸中期の大坂の民間人の医師です。復刻版もあり現在でも簡単にみることができるこの書は、当時の文化人が如何に博識であったかを示しています。いっぽうで、多くの文化人、芸道者たちのあいだにはかなりの交流があったことが近年知られるようになっています。京都に生まれ後に江戸の街にも住み、晩年は京都へ戻った光琳が、古来の和歌や伝統・哲学をよく知り、それにもとづいて絵画などを制作したという事実が各作品をみるとよく分かります。
 江戸時代中期に、立花に代わる生け花『なげ入れ』を確立させてかなり存在感があったと思われる入江玉蟾の版行本『挿花千筋の麓』には、この『水くぐりの梅』をテーマに梅の枝が水盤の水をくぐるなげ入れの絵が掲載されています。そこには平経章・後拾遺集「末むすぶ人の手さへや匂ふらん梅の下ゆく水の流れは」の古歌がそえられていますが、何がきっかけだったのでしょうか、この歌は当時よく知られていたようです。
 図はそれから百年強をへた幕末に、古流の四代家元とされる関本理恩が版行予定ではたせなかった自筆の書『秀花図式』にある「水くぐりの梅」の図です。同じ和歌が記されています。ここでは、「なげ入れ」から発展して「生花(せいか)」の図となっています。このように、江戸後期には一世を風靡した生花(せいか)の各流ではこのテーマを好む例がいくらか見られるようです。

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 古流の四代家元・関本理恩の未刊行に終わった『秀花図式』のなかの「梅の水くぐり」の図。「白梅」と指定されている。下がる梅の枝は水の下までくぐってもいいし、水面に近づきながら水に入らなくてもいい、と伝承される。言うまでもなく梅は古来、強い文化を持つ木。香りも愛でられ、和製漢字の「匂」は「勻・イン、キン」から来ていると考えられるが、匂と勻には若干のニュアンスの違いがあるのが興味深い。この違いの理由には五行特有の哲学と日本的な文化土壌があると思われる。和歌は男女の契りを雅に表現しながら、いっぽうで「水」によるミソギやムスビといった重いテーマを隠していることが、この和歌が多くの芸道者たちの心をとらえた理由だろうか。


 

2021年12月02日(木) 華林苑 花日記

カタクリの図にみる「出生(しゅっしょう)」の意識

… 江戸期の生け花の『哲学』
 前にもご紹介した『挿花直枝芳』(入江玉蟾選、明和六年一七六八)の奥付がある板行本の「春」の部の一頁です。
 『生花(せいか)』が爆発的に広がる前夜の、初期の生花の書です。一世を風靡した立花にくらべると大きく趣が違うので茶花と受け取られる場合もありますが、茶室の花ではなく床の間などの生け花の新たな潮流です。
 この絵はカタカゴつまりカタクリの花で、万葉集の大伴家持の歌に「堅香子」として登場するのは良く知られます。絵にそえられている二首のうち右の和歌がそれです。家持が越中守として国府(現・富山県高岡市伏木、海岸に近い丘陵地)で詠んだものとされますが、今でも国府の跡とされるあたりには杉木立のなかにカタクリの群生がみられます。自然が破壊される度合いが少ない北陸ならではの風雅といえます。
 古代の国司は漢詩や和歌が必須の教養だったようです。近年では天智・天武・持統天皇の時代に大きな政変があったという見解が優勢のようですが、大伴氏はそれ以前からの名族で、新着の中国文化の漢詩よりも古来のヤマト言葉の和歌に秀でていたと考えることができそうです。それはヤマト言葉の「言霊」の哲学で、和歌が非日常の世界で強い言葉の呪力を発揮するツールという思考は、のちの平安末期以降の藤原定家にはじまる和歌の流れとは対極にあります。
 後世、ヤマトの文化を追い求めた江戸の国学者たちは、藤原定家以降主流となった和歌や文化の潮流を非難しています。万葉集の時代には厳密に守られていたと考えられる「発音」と三十一音の伝統が、藤原定家の新たな和歌文化の提唱によって破壊されてしまった、との主張です。それは、武家文化と貴族文化の本質にかかわる問題ともいえます。
 さて、絵のタイトルと説明の部分には、カタクリの漢名や異称をあげています。カタクリの絵は、残念ながら必ずしも忠実に写生したものとは言い難い点があります。ただ、一つの茎に二枚の葉が付いているのが「出生」なので、二花を生けて葉の総数が四枚であることも許される、と説明している点には注目されます。
 『器が「陰」なので、そこに挿す花や枝・葉の総数は「陽」数字、つまり奇数でなければならない』という哲学と整合性がないため、ここではあえて付記しているわけです。(ただし、「二」は古い哲学では奇数とも偶数ともとるので、生け花の数字では二は許される)逆にいえば、花や枝・葉数は陽数字=奇数でなければならない、という考え方はその時代には定着していた、ということも窺えます。奇数偶数の哲学を優先するか、出生(個性、ただし深い意味で使われる)を優先するか、確かに難しい問題です。生け花理論と、それにもとづく実際の作品の美しさ・感動が一致することが、何より求められるでしょう。
 和歌は「もののふの 八十(やそ)をとめらが 汲くみまがふ  寺井の上の かたかごの花」などと訓まれる、よく知られるものです。ちなみに、「もののふ」は後世には「武士」とも書きますが、古くは「物部」と書きます。物部氏は、大伴氏などとともに古代史の鍵を握る氏族・職掌と考えられており、その祖はニギハヤヒノミコト、すなわち大国主、大物主などと呼ばれる神です。〝ニギハヤヒ〟の正式な名前はアマテラスと似ており、非常に複雑な日本の神まつりの事情を示唆しています。
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